君を忘れない

私立中学、そして将来は東大へ
私は塾の指導が終わると、小学5年になるN君の家を訪問した。彼は塾に週3回通い、それ以外の週日の3日は私が彼の家に行くことにになった。彼の家に行くのは、いつも夜の10時を回っていた。神奈川の最難関私立中学を受験するためだ。
私は彼が幼稚園児の頃からよく知っている。その頃から私立中学受験の相談を彼の母親から受けていた。私は子供の意思不在の中学受験が好きではない。親の希望が前面に押し出され、将来に渡ってレールを敷き、その上を走らせることが子供の幸福につながるとは思えないからだ。そんな訳で、私は彼の中学受験の指導を断り続けていた。
小学1年の春、彼は私の塾に通い始めた。そして年数回の父母面談では、いつも中学受験の話題となった。
「あの子は受験勉強を続けられる。だから、みてください。先生でないと駄目なんです」最後はいつもそう締めくくられた。
私はそれでも煮え切らない態度をとり続けた。
大船駅を降り、坂を下った中腹に彼の両親の憧れる中学があった。毎年、大学受験シーズンを終えると週刊誌に大学合格者数が掲載される。東大合格者を受験者数で割った合格率は全国でも上位で、絶えず話題にあがる。
彼が小学4年の秋、私はその中学の受験説明会に彼の両親と出席した。
私は彼を私立中学受験を専門に指導する進学塾に通わせるよう何度も提案したが、両親はそうしなかった。受験までの準備を考えると、時間はなくなっていた。

高卒のつらさが分かりますか
今から三十年前だから、確かに学歴偏重の社会構造だった。どんなに能力があっても、高校卒業ではその会社での将来は限られていた。泥のように働いても大卒と高卒では給料に差があった。ホワイトカラー、ブルーカラーという言葉がある、そんな時代だった。
酒も煙草も飲まず、ただひたすら働き続けるN君の父親。その父親が注ぐビールをグラスに受けながら、私は彼の話に耳を傾けた。
「大学を出た先生には分からんですよ。私の気持ちは・・・」
彼には自分を生かす場が与えられていなかった。その障害となったのが学歴である。
「給料の差なんて大した問題ではないんです。何十万と違うわけじゃない。仕事が辛いと言ってるんじゃないんです。仕事は辛くて当たり前。しかしそこで生きがいを見出せなかったら、地獄です。」
どんなに会社に貢献するアイディアがあっても、それを発表する場がなかった。今でこそ、学歴に関係なく自分の企画が上層部に届くシステムが組まれている会社は多くなった。しかし、当時はそのようなことはほとんど無かった。
人生の先輩であるN君の父親の言葉は、ビールの苦さを伴って私の耳に響いてくる。人は誰でも自分らしく生きたいという願いを持つ。それを断たれる辛さが私にも分かった。彼は大手の自動車部品メーカーに勤めていた。夜勤、昼勤と週単位で勤務時間が変動する。
「こいつには私のような思いをさせたくない。」隣に正座するN君の頭をなでながら、父親は言った。
「先生が中学受験に反対しているのは知っています。だからこそ、息子は先生にお願いしたいんです。」そして、そのあとを母親が続ける。「何年待てばいいんですか。もう時間がないんです。」
私が拒み続けることが、果たして本当にこの親子にとって良いことなのかどうか、私の中に迷いが生まれていた。親の情にほだされて、私はN君と中学受験の勉強をしてゆく気になった。

無駄な時間を省け!寸暇を惜しめ!
「うちの学校はオール5の生徒が欲しいのではありません。オール8の子が欲しいのです。」説明会で聞いた言葉が、時々私の脳裏をかすめる。オール8の実力とは何だろう。小学校の通知表は当時5段階で評価していた。オール5以上の能力を要求すると言うことなのだろう。未知の問題にも自分の思考を使って解決の道を探すということだろうか。
私はN君が小学5年になった春、中学受験合格を目指し指導を始めた。N君の父親の思いが身に滲みたのである。
そのとき私は条件をつけている。N君が勉強に耐えられなくなったと私が判断したときには、指導は止める。これはN君のためでもある。

私たちは勉強のルールを取り決めた。
鉛筆は2Bを12本削ってペン立てに立てておく。使った鉛筆は別のペン立てに入れる。
消しゴムは使わない。消している時間も惜しむのである。
訂正したいときには横線で消して、その下に訂正する。
計算も漢字練習も全てノートに書く。
下敷きは使わない。
間違えた問題、できなかった問題につける印を考えて、答え合わせをした後に必ずその結果を問題番号の上に記入する。
12本の鉛筆が丸まったときに小休止を取り、鉛筆を削る。
基本的にはそのような事で、学習時間の節約を図った。
算数と国語を中心に時間を取り、理科や社会を気分転換のように挟み込む。
算数の文章題は方程式で立式させた。つまり、掛け算で考えるということである。
小学生の算数は無名数式で指導されている。つまり、単位は数式では省略する。だから分かりにくい。公式を忘れても、名数式なら自分で公式を導き出すことができる。単位の意味を十分に理解させればいいのだ。例えば、km/時×時は約分すればkmが導かれる、というように。
彼は知識をすばらしい速さで吸収していく。
滑り出しはよかった。

しかし、精神的な危機はうねりのように何度も彼を襲った。表層の意識は勉強を求め、深層の意識はそれを拒否した。
分かって当然の問題が解けなくなる。それにミスも多くなる。そしてついには自分の能力のなさが悔しいと言って泣く。小学5年の子が、勉強したいと言って泣くのである。
この激しさはどこから来るのだろうと私は何度も自問自答した。彼は父の悔しさを知っている。母の希望も知っている。それをかなえる為に精一杯生きている。
「勉強、やめようか。」彼にそう言ったことがある。彼は泣きはらした目で私をにらみ「そしたら負け犬になる」そう言って鉛筆を握る。
「悲しくなったら、二人で泣きながら勉強しようか」私はそう言って彼の悲しみを受け止めるしかなかった。小学生が深夜まで勉強している姿は尋常ではなかった。しかし、彼の心の中で確かに培われていくものがある。己に対する誇りである。凄まじい生き方をしているという自覚である。

中学受験に失敗して…
受験は1校だけだった。これぞオール8と私が確信した彼は不合格だった。模擬試験や過去問の成績からみて、信じられない結果だった。両親の落胆は激しかった。彼は私の前では泣いたが、両親の前では普段どおりに振る舞っていた。
悲しみはその時その時に処理しなければならない。しかし彼は、それを力でねじ伏せた。
そして、落胆する父親に次の目標を告げていた。合格した人たちとの本当の戦いは大学受験。その時までに、もっと力をつける。
彼は頑張る姿を見せることが父や母を癒すことをよく知っていた。中学受験が彼を強くしたのかもしれない。
しかし、私はその反動を恐れていた。つまり彼の心が彼の意思に逆らって、彼の精神を二つに引き裂くのではないかという危惧が、私にはあった。
中学の三年間、彼はよく遊び、よく勉強した。口元にうっすらと髭を生やすようになった彼は、時々思い出すのだろう。
「おれ、本番に弱かったのかも知れないな。あの時、解けるはずの問題が解けなかった。普段書けている漢字も書けなかったし・・・」
心はまだ中学受験の傷を引きずっていた。
「結果を恐れたら何もできない。やるだけやってぶつかる。だから生きているのが面白い。」私はその度にそう答えた。
高校はこの地区の公立のトップ校に合格した。合格が発表された夜、彼と私は将来の夢について語り合った。私はこの塾をどこにもない学びの空間にする、彼は東大に入り物理学をやると語った。私の夢はともかく、彼はその夢をつかむだろう。こうして、私は彼を送り出した。

風の便り
彼が東大を滑ったと、風の便りに聞いた。
私の心は痛んだ。傷心の彼はいずれ私の所に来るだろう。慰めようとすれば、彼は怒るに違いない。
私は彼の高校三年間はよく知らなかった。正月に挨拶には来てくれたが、ゆっくり話したことはなかった。彼は希望する大学だけを受験したのだろう。幾つも受けて合格した大学に入るということを潔しとしない。浪人を覚悟しているはずである。
しかし、彼は現れなかった。次の年の正月にも…。彼の消息は知れなかった。
二年ほどして、彼がアメリカにいるらしいことを、人伝に聞いた。
彼に会わなくなって四年の月日が流れた頃、突然彼から電話があった。会いたいと言う。
空白の四年がどのように流れたのか確かめることもできず、電話は切られた。
翌日の再会を約して…。

日本に戻ってびっくり
私の顔を見ると、少し長くなった髪をかき上げるようにして懐かしい微笑を投げてきた。そして右手を出し握手を求め、その後私の体を抱きしめてきた。私は戸惑いながら彼の挨拶を受けた。映画では見たことがあっても、実際に自分がそんな場面を演じるとは思ってもみないことだった。そんな一連の動作が彼のアメリカでの生活を髣髴とさせた。
「三日前に日本に戻ってきました。成田を降りて一番びっくりしたというか、落ち着かなかったのは、電車に乗っている人の髪の色が黒いこと。黒一色。なんだか異国に迷い込んだような、妙な気分になりました。」
今でこそ髪を金髪、茶髪に染めている人が溢れているが、あの頃はそんな人はあまりいなかった。私には日本人の黒髪に驚く彼が新鮮に見えた。
「それに電車の中で話している人達の会話の意味が取れなかった。聞き耳を立てながら、日本語を忘れてしまったんじゃないかと少し焦りました。先生にすぐお会いしたかったんですが、そんな訳で今日になりました。」
彼はアメリカ土産と言ってバーボンウィスキーとブランデーをバッグから取り出した。
「僕が住んだ州は、いまだに禁酒令が出ています。だから、酒を飲む人は州を越えた町まで車で出掛けて行くんです。」
カポネの時代ならいざ知らず、いまどき禁酒令など聞いたことがなかった。
「あっ、僕の言葉を信じていませんね。」
私の目に疑いの色が走ったと言う。昔から、人の心を読むのがうまい子だった。人の心を汲んで動く。だから彼は小さい頃から変に物分りのいい子であった。
そんなやり取りがあって、私たちは四年の歳月を埋め、昔の関係が回復していった。

もう一度、頑張ってみるかな
合格発表の日、失意の彼は友人の家に泊まると両親に告げ、本郷から不忍池に回って夕暮れになるまで、枯れた蓮の葉や茎の飛び出た池の、キラキラ乱反射する水面を眺めながら過ごした。
誰にも会いたくなかった。
夜が更けてネオンサインのきらめく町を涙を流して歩き回り、上野の深夜喫茶で夜を明かした。情けなかった。
彼の気持ちが私には分かるような気がした。友人に対する妬みはある。しかしそれは劣等感ではない。ただ、今までのように友人たちに接することができないのではないかという心を持て余したのではないだろうか。彼の周囲の人達に胸を張っていられる自分。それにはどうしたらいいのか、都会の夜をさ迷いながら、そんな事を考えていたに違いない。
「まさか、死にたいなんて考えなかったよな。」
「選択肢のひとつには挙げておきましたが、それを選ぶつもりはありませんでした。不忍池の朝は幻想的でした。水面から上がる水蒸気が池全体を靄で隠していくんです。そして、その周りに浮浪者たちが所在なさげに座り込んでいる。その時、浮浪者のように全てを投げ出して、ここに座り込んでもいいな、とチラッと考えましたけど…。」
彼がアメリカ行きを決心したのは、もう一度新しい場所でやり直したいと考えたからではないだろうか。知る人のいない異国の地で自分を取り戻したいと。

彼が昔の私に重なった。
私も現役での受験失敗を期に故郷を離れた。私は恩師にも友人にも連絡を取ることはなかった。十九歳だった。あの頃読んだ室生犀星の詩。
『故郷は 遠きにありて思うもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところに あるまじや』
私はそんな心境で田舎の恩師や友人と音信を絶った。新しく生まれ変わろうと思ったのだ。
いや、そうすることでしか前に歩を踏み出せなかった。しかし、故郷を離れたからといって、うまくいくとは限らない。私は戸塚区に住んだが、勉強に疲れると雑木林の中を歩き回り、当時流行っていた歌を口ずさんだものだった。
『西を向いても駄目だから、東を向いてみただけさ』今思うと、あの頃の私の心境にぴったりの歌詞である。

「僕は漠然とアメリカの大学へ行こう。そう考えていました。語学のハンディがあろうとも、それを克服して卒業しよう、と。」
「それって突飛な発想じゃないか。現実を無視している。」私は彼を揶揄した。
「英語はよく分からなくても、九月が新学期です。語学研修に半年の時間的余裕がある。そう考えると、現実味があると思ったんです。」
誰もが反対しただろう。だからこそその道を突っ走りたいと考えた。大学は準備講座として語学研修の授業を設けていた。そして一定レベルに達すれば、入学を認めるとのこと。
四月上旬、彼はアメリカの大学に入学すべく旅立った。希望こそが、すべてのマイナスをプラスに転換するエネルギーだ。
風の便りで渡米を知った時、私は彼の傷心を思い心を痛めた。しかし、当の本人は希望に燃えてアメリカに旅立っていた。たとえその道がどんなに険しくとも、彼にとっては確かな一筋の道であり、その先には微かながらも希望の明かりがあった。

アメリカでの大学生活
大学が近くのトレーラーハウスを紹介してくれた。もちろん経済的理由から、彼はそこをねぐらに語学研修の講座に通った。語学留学の日本人が何人もいて、一週間ほど行き来したが、その後は彼等を避けたと言う。彼らは勉強に来たのか、観光に来たのか、遊びに来たのか分からない。そんな生活ぶりだった。青春を浪費していると、彼には見えた。
また、語学留学生を食い物にする人達も周囲に集まってくる。日本に戻れなくなった留学生もいて、そんな連中が遊びに誘う。勉強どころではなかった。
彼は一日おきに徹夜をしたという。この習慣は卒業するまで続いた。
食費を切り詰めるため、週六日は自炊。近くのレストランには野菜を食べるためにやむなく行った。
「毎日、ビーフステーキです。肉が信じられないほど安い。で、野菜不足になる。近くのレストランでサラダバーを注文して、ビタミン不足を補うんです。毎日ビタミン剤も飲むけれど、それでも不足する。何度か入院しました。病名は栄養失調です。今時、笑っちゃいますが…。」
「で、ご両親はその入院を知っているのか。」
「いや、つい口を滑らせました。これは内緒にしておいてください。」
思ったとおり彼の生活は想像を超えた物だった。
彼の徹夜は語学のハンディキャップにあった。テキストは当然ながら英文である。それを読んで理解していくのは並大抵のことではない。大学側はアルバイトを禁止している。金銭的余裕のない彼にはその時間的余裕もなく、生活は逼迫した。一年経って、大学が大学内での家庭教師の口を斡旋した。わずかではあるが、彼の窮地は救われた。
「どこか観光したのか。」
私の言葉に、彼はとんでもない、という表情を作った。
「僕が知っているのは、トレーラーハウスから大学、図書館、そしてよく行ったレストランへの道だけです。」
今度は私が、まさか、という表情を作る番だった。彼は私の驚いた顔を、微笑で受け止めた。
「ちょっと大袈裟に聞こえたかも知れません。それには理由があります。飛び級制度があるんです。学年を飛び越えて早く卒業しようと考えていたので、夏休みも冬休みも大学で講義がある。観光の時間はまったくなかった。それに数学科に入ったんですが、コンピュータ科にも入った。二学部を股にかけての勉強でしたから。」
日本の大学は、入学すればほとんどの人は卒業できる。トコロテン方式だ。アメリカの大学は入学は簡単にできる。が、卒業するのは難しい。だから、大学の卒業証書の重みが異なる。これを、二学部同時に卒業しようとした。
卒業するだけでも大変なのに、飛び級制度を利用して…私は驚嘆すると同時に彼の今までの言葉を納得していた。
「君の友人たちより半年早く卒業。それだけじゃなく、二学部卒業のおまけも付けて。快挙だよ。とんでもないことをやってくれるじゃないか…。」
彼はさわやかな笑みを浮かべた。どうして彼の卒業を知ったのか、いろいろな企業から就職の誘いがあるという。彼はそれらには耳を貸さず、またアメリカへ旅立つ。大学院に戻るという。

二十数年、私は彼を見てきた。彼の生き方には頭が下がる。
幼稚園に通う彼。
算数が大好き、と目を輝かせた小学生の彼。
中学受験に失敗し、涙ぐむ彼。
その時その時の彼の姿が、浮かんでは消えた。
そしてどの彼にも、物分りのいい、人の希望を叶えようとする心の傷が見えた。彼は、愛を乞う人なのかも知れない。彼だけではない。人は誰でも心に傷を持つ。
そんなことが脳裏を掠めたが、彼のアメリカ行きは正しい選択だったのだ、と私は思う。別れ際、私は彼を抱きしめてアメリカ式の挨拶をした。

彼の人生に祝福あれ。そう祈らずにはいられなかった。